井上正子日記のこと

更新日:5月22日

「父のチェーホフ― 1928年、湯浅芳子」『ぽかん』ぽかん編集室〉所収)の一部をここに引かせていただく。


 エッセイのタイトルに記された湯浅芳子(1896-1990)は、京都出身のロシア文学の翻訳家で、わたしは高校生のとき、「謹呈 父上 様」と署名した湯浅の訳した『チェホフ全集 10 書簡集』(新潮社、1928年)を古本屋の軒先で見つけた。その一冊をめぐって、わたしは、『ぽかん』という小さな雑誌に書き継いできた。


 連載の4回目を書いているとき、大伯母の井上正子が、湯浅芳子と同じ京都市立高等女学校の出身だとわかって、日記が出現した驚きから軽く触れたことがあった。


わたしの大伯母が、芳子と同じ堀川高女の十年ほどちがう後輩で、その大伯母が女学生時代を通じて書いた日記に、在学生に自殺者がでたと聞いて衝撃を受ける条りがあった。その日記(六冊)は、半年ほど前に自坊の六角堂(納骨堂)の須弥壇下を片づけていた時に見つけたもので、薄暗い堂内でそれを開いたら、卒寿を過ぎても聡明だった大伯母の多感な十代が現われ、思わず仰けぞってしまった。「いちごゼリーは素的よ、王様の冠のルビーの様に光った」(大正十一年六月二十一日)と大伯母は弟(祖父)に話しかけている。

父のチェーホフ( 四)―1928年」『ぽかん8号』ぽかん編集室, 2018年11月)


 思えば、ここに記したことが大伯母の日記を紹介した最初だった。このわずかな紹介でも、正子日記の存在に関心を持ってくださる方があった。

 日記の発見が2017年の暮れなので、その五ヶ月後、2018年5月1日という時点で、一冊目の日記が百年前の今日を迎えようとしていることに、そのときはまだ気がついていなかった。

 その3年後、まさかコロナが始まり、4年後に世界を震撼させる戦争が始まっているなど想像できただろうか。


 日記の出版を思いたったのはCOVID-19のパンデミックがきっかけだった。

 井上正子の日記は、スパニッシュ・インフルエンザに関わる一級史料として注目された。それだけでなく、日記が書き出された1918年5月は、総計3,700万人の死者が記録されることになる第一次世界大戦が終結(同年11月)しようとしていた(いまわたしは、編纂中の正子日記の註釈から死者数を確認したのだが、民間人の数は1,100万人だったことに衝撃を受ける)


 正子の日記をつぶさに読むようになって気がつくのは、百年前の出来事が、現在に連動している。それは、個人史が世界史を記録に留めるようになり、それが百年後の現代に起こっていることと確かに関係していることだった。

 正子の日記は、百年前に起こった出来事を、いまわたしが暮らしている場所(徳正寺)を舞台にして正子が記したという事実が、時空を越えて作用している。昨日、「百年前の今日」に重みがあると言ったのは、その実感なのだろう。

 だからというべきか、日記が百年の眠りから覚めて出現したのは偶然ではないように思える。


 「父のチェーホフ(五)― 1928年、湯浅芳子」から、正子日記のことを引いておく。



 昨年(2020年)3月1日、大伯母の二十三回忌法要が、彼女が嫁いだ滋賀県蒲生郡日野の寺で予定されていた(芳子の没した八年後の一九九八年、正子は満九十一歳で他界)。しかし、新型コロナウィルスの感染が国内でも拡大し、直前になって法要は延期。3月5日より、息子たちが通う京都市内の小学校は休校となった。少し前まで国内外からの観光客であふれかえっていた京都の市中は、緊急事態宣言の発令直後などゴーストタウンのように思えた。日々刻々と状況が変わるなかで、メディアから新型コロナウィルスのパンデミックが、百年前に人類を襲ったスペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)の流行と似ているという話を聞くようになっていた。

 歴史家の藤原辰史氏が、岩波書店のウェブサイトに緊急寄稿した「パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ」(2020年4月2日)の中で、スパニッシュ・インフルエンザが人間社会に与えた諸事象が、いま我々が新型コロナウィルスのパンデミックによって投げ込まれた情況とさまざまな点で共通し、百年前の社会が経験した過去を掘り起こすことが、「現在を生きる私たちに対して教訓を提示している」と語られているのを知った。また、「スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を出したにもかかわらず、後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと」を指摘する。また藤原氏は、ミシマ社とメリーゴーランド京都(子どもの本専門店)が企画したネット配信(4月25日)の講義で、当時のスペイン風邪に関する記録や史料が、第一次世界大戦というビッグイベントの影に隠れて、容易には見つからない旨を述べられたのを聞き、不意に大伯母の日記帳を思い出したのである。

 わたしは日記帳を書架から取りだしページを開いた。スペイン風邪が日本に上陸したのは、1918年(大正7)の春から秋にかけて。日記帳の一冊目を特定すると、それが18年5月1日から記されていることに胸が高鳴った。秋からの流行は大勢の人が感染し、死亡したという。10月前後から日を追って読んでみた。

 そして、10月22日の日記に、次のような記述にぶつかった。


十月二十二日 火曜日 天気 曇 温度七十度[華氏/21・1℃] 起床五時半 就眠九時

今朝は寺村さんへお美代さんやお喜久さんとお茶のおけいこに行つた。清子さんは御病気だつたのでなさらなかつた。

この頃は大変いやな風が流行するので先生も父母も私に気を付けよとおつしやる。


 日を追うごとに、スペイン風邪の流行を示す記述が散見されるようになる。


十一月二日 土曜日 天気 雨 温度[空白]度 起床七時 就眠九時半

此頃大層風が流行るから学校は今日から四日間お休みになつた。学校は二百六十四人程の欠席者があつた。

今朝弟は姉ちやんはよいなお休みだからとうらやましさうに学校へ行つた。

正午帰つて来て姉ちゃん〳〵僕とこ一週間休へとうれしさうにしてゐた。


十一月十二日 火曜日 天気 晴 温度五十五度[12・7℃] 起床六時 就眠九時

此頃新聞を見ると黒わくの広告が沢山ついてゐる。

お友達の重田さんのお母さんも八日になくなられたさうで今日山崎先生と世良さんと私とで生徒総代になつておくやみに行つた。

ほんと重田さんはお気の毒である。


 大伯母が、当時まだインフルエンザとは知られていなかったスペイン風邪を、身近に迫る不安として記し留めていたことに、わたしは息を飲んだ。


(中略)


 「十二歳のスペイン風邪 大伯母の百年前日記 野田正子日記抄」は、『河口から Ⅵ』(2020年5月31日発行)に掲載された。スペイン風邪の流行を記録した日記の出現は、本誌が刊行される直前で神戸新聞と京都新聞から取材を受け、神戸が2020年5月24日、京都が翌25日にそれぞれ一面で大きく報じられた。京都新聞は地元のスクープを神戸に一日早く抜かれたため、社会面を割いてまで取りあげるほどだった。新聞報道が話題を呼び、『河口から Ⅵ』は瞬くうちに完売した。もともと季村敏夫さんの周縁で流通していた、読者数も限られた個人誌なので、大伯母の日記を目的に購った人が、外の文章にも目を落としてくれただろうか。コロナ禍の真っ只中で刊行されたにも関わらず、執筆者の中でコロナについて直接触れているのは、わたしと山崎佳代子さんの「鳥たちの空、ベオグラード・コロナ日誌」だけのように思われる(扉絵に倉本修画のアマビエが見えるが)。「暮らしを全身で味わっている」(阿部日奈子)から、社会の表層を覆うコロナは紙背に隠されてしまったのかもしれない。百年前のスペイン風邪日記とベオグラードから送られてきたコロナ日誌が隣り合わせていることが、異なる時空間をひとつに繋いでいるように見えた。わたしは「野田正子日記抄」の編集後記を次のように書いている。


 大伯母の日記には、興味の尽きない事がまだまだ記されている。紙数を大幅に過ぎて、というよりも、わたしが熱狂するあまり無制限にこの日記掲載を許していただいたことで、常軌を逸した分量になってしまった。

 2月19日(大正8年)の夜、「少しのどと頭が痛かつたから早く寝た」と記して、その翌日から16日間も寝込んでしまうのは、大伯母はおそらくスペイン風邪にかかったのだと思われる。病気中も一行足らずでも日記がつけられたのは、軽症で済んだためだろうか。しかし、二週間余りも病床にあったのだから、ただの風邪でなかった。「熱の高さは朝六度八分 昼は七度二三分 夜は七度五分」(2月26日)、「熱は毎日同じ高さで上り下りもしない」(2月27日)と、律儀に体調を書き記していて、SNSなどなかった時代、病状がタイムラインのように読めることには驚く。

 日をさかのぼって読みこめば、大伯母の感染経路も推測できる。発症の5日前、2月14日に「母は渋谷の姉さんが流感で寝てゐられるのでお手伝に行かれた。女中もかぜで郷里へ帰つたので兄さんが困つてゐらしやつたさうだ。」と記す。大伯母の母が流感の感染者と濃厚接触をしていたのである。

 確かに、この日記をスパニッシュ・インフルエンザに関わる史料として疫学的に見るのなら、病床の16日間とその前後、風邪の流行に関わる記述だけを追えば良かった。

 ただそれでは、大伯母の筆が書き遺したことの本質が半減する。

 スペイン風邪の患者数、死亡者数とも最大に達するのは大正7年(1918)11月のことだが、大伯母のまわりにも病気になる人や、「此頃新聞を見ると黒枠の広告が沢山ついてゐる」(11月12日)と、明らかに感染症の拡大が日記には記し留められていた。社会全体が目に見えない不安に包まれているなか、「夜父は広島へおこしになつた。/今晩から少しこはくなる」とたった二行で記された日がある(11月11日)。これは単に父の不在が不安というより、十二歳の少女が漠然とした死に直面して畏れを抱いている。

 このたった二行が、長命だった大伯母の一生と吊り合っていると感じるのは、編者の深読みに過ぎるだろうか。


父のチェーホフ( 五)―1928年」『ぽかん9号』ぽかん編集室, 2021年10月)




 



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1922年(大正11)8月28日 八月廿八日 月曜日 晴 起床五時 就眠十時 朝食後、直に大谷大谷[東山の大谷祖廟/図地 g-3]へ参詣に行く。黒味を帯びたる緑の松の木の間からかすかに美しい朝の日の光はさしこんでいる。 石の敷石は掃き清められているのが遠く連なっている。 二、三の人影が見える。私の歩む下駄のひびきがはっきり分かる。 静かな朝の気分にうっとりとひたりながら何にも考えないで足を運ばせる