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妙好人のフィールド 大月 健さんのこと

 おととい、『屋上野球 Vol.2』(2014年7月、編集室 屋上)に寄稿したエッセイをふと読み返した。書き出しを「草野球を二十年続けている」としていて、「三十年続けている」としたいところだが、ここ数年試合には出ていない。しかし、幽霊部員として在籍してるから、やはり三十年続けている。三十年続けても上達しなかった草野球だが、さいきん始めた能楽師の安田登さんとの謡のお稽古と似たようなフィールドが、そこに開けているように感じた。安田さんは十年続けなさいと言う。いつか「謡を二十年続けている」と書き出す日があるだろうか。


妙好人のフィールド

 大月 健さんのこと



 草野球を二十年続けている。それだけ続けてもいれば、チームでは一目を置かれるプレーヤーなのかもしれないが、ライトの8番を二十年、不動のライパチくん。なにしろ草野球チームに入ってから野球を始めた。それまでの野球歴はないに等しい。もともと運動にうとく、キャッチボールさえ覚束ないから、当時二十代半ばにして、上達する伸びしろがほとんどなかった。にもかかわらず、二十年も続けられたのはなぜだろうか。

 二十年をふり返ると、野球のできなかったわたしを草野球に引っぱりこんだ二人のチームメイトが、この七年のうちに他界している。チームメイトと言っても、親父ほど年の差があった。そのひとり、大月健さんについて語りたい。

 大月さんはひょろっとして、日に焼けた顔にヒゲを蓄えて、初めて会ったときは、笑うとヒゲの間からヤニに汚れた乱杭歯がのぞいた。冬でも上着をまとわず長袖シャツだけで、年から年ぢゅう素足に雪駄。いつも天然パーマの髪をなびかせ、京大のキャンバスを歩いていた。農学部図書館の司書を務めるかたわら、若き日から辻潤に私淑し、辻潤探求誌の『虚無思想研究』発刊に力を注ぎ、また個人誌『唯一者』をコツコツと編集、刊行した。「唯一者」とは、マックス・スティルナーの『唯一者とその所有』に由来する。「唯一者」という在り方は、大月さんを捉えて離さない思想だった。「唯一者」とは、自分自身を所有する「唯一無二の人間」を意味する。究極のエゴイズムとも言われる。

 大月さんにとって、唯一者と、九人でプレイする野球というは、どんな関係にあったのだろうか。

 大月さんはピッチャーだった。どくとくのフォームから繰りだす投球は、人柄のまま大らかで、ブンブン振り回す打者からは、気持ちがいいまでにストライクが取れた。

 大月さんのすごいところは、仏教で言う三毒、すなわち・・(欲・怒り・愚痴)を感じさせない。共にフィールドでプレイしていると、それがよくわかる。わたしが凡フライを落球しても、マウンドから「ええよ、ええよ」と手を振ってくれるのだ。

 浄土の仏者に妙好人と呼ばれる人がいる。それは、市井に生きた、動かぬ信心をもった無名の篤信家、聖人である。妙好人の言動は、周囲の人を揺さぶって信心へと導いた。

 大月さんは妙好人だったのかもしれない。

 大月さんの言行を採って、大月さんを妙好人に祀りあげることは可能だろう。しかし、大月さんのことを描こうとして、描けば描くほど、大月さんの言動は特別なものになり、大月さんを聖人化して、わたしが知っている大月さんの実像から離れてしまう。

 「共にフィールドでプレイしていると、それがよくわかる」と先ほど書いた。妙好人が周囲の人を揺さぶったのは、同じフィールドに立って、その人と面と向かって何かを感じたからである。そのフィールドを描かなければ、妙好人の何たるかは知れないのではないか。歴史の上では、妙好人が「動かぬ信念」をもったと言うが、妙好人が生きたフィールドでは、その信念は、もっと流動的だった。

 こう考えてくると、大月さんが胸にいだいた「唯一者」という唯一無二の「動かぬ信念」は、フィールドを転がるボールとしてイメージされてくる。事実、大月さんは、ピッチャーとしてボールを手放さなければ、野球は始まらなかった。

 わたしは、唯一無二のわたしを取り囲むフィールドに、転々ところがり続ける大月さんが投げた球を、今もって追い続けている。

 
 
 

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