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『拾遺都名所図会』の徳正寺

更新日:2021年5月7日

『拾遺都名所図会』は、『都名所図会』(安永9年〈1780〉)の後編として天明7年(1787)秋の刊行。前編と同じく本文は京都の俳諧師 秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師 竹原春朝斎が描いた墨摺の五冊本である。德正寺は「巻之一」に収録。​​




 徳正寺[とくしやうじ] 富小路通四條の南にあり東本願寺に属す 初は東山大谷の邊にして勝久寺[しやうきゅうじ]と号す 二條猪熊[いのくま]にあり 御城御造営の時今の地にうつす/

本尊阿弥陀仏 安阿弥の作 立像二尺余 初は四條奈良物ならもの町大膽鍛冶[だいたんかじ]が持尊なり/霊告[れいこく]によつてこゝにうつす

寺説に曰文明三年二月十六日叡山の悪徒四五百人当宗の興盛を妬んで大谷本願寺親鸞聖人の廟塔[びやうたう]を破却せんとす 蓮如聖人防に便なく開山の影像を先立て密[ひそか]に遁のがれ三井寺の別院近松寺に潜居し給ふ時に越前国荒井の住人井上筑前といふもの薙髪[ちはつ]して願知と号す 是当寺の開基なり 此僧踏止[ふみととま]ッて身命を捨強く防戦ふせきたたかふ故に山徒祖廟を発[あばく]事を得すして退散す これによつて 蓮如聖人より感状を賜る 其文に曰

今度本願寺依破滅山頭之悪党等開山上人之遺骨欲掘返所願知
依一身之才覚全御番仕不移転条一世之満足末代之名誉
神妙也為褒美内木仏令授与候也難有存子々孫々迄
御廟所御番可被勤者也
 文明八年正月十八日  蓮如在判

勝久井[ かつひさ]のゐ 当寺の堂前にあり 細川兵部少輔勝久か第宅の旧跡にして其井水也

当寺の什物[じふもつ]に親鸞聖人の筆十字名号後西院ごさいゐんの宸翰しんかん六字九字の名号 親鸞聖人蓮如上人の遺骨ゆいこつ 秀吉公朝鮮発向乃軍鼓あり

○又毎年節分の初夜に平太郎入道真仏上人の伝を講読す


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