5月3日、友人のヤンさんに誘われ、子を連れて比叡山を登った。
ヤンさんの次女Sちゃん、いま6年生のSちゃんとわたしの長男 Yoは保育園からの幼馴染で、もう10年来の友である(記憶にない時から出会っている)。Nちゃんは、小学校1年の時にYoとクラスが同じになった。SちゃんとNちゃんとYoの3人はいま同じクラス。そして、Nちゃんの母KさんとYoの弟のSetsu、子ども4人、大人3人の総勢7人で比叡山山頂を目指した。Sちゃんの姉 Wちゃんは不参加。中学2年になって子ども達の集まりには一歩置くようになったのだろうか。
四条京阪から修学院まではバスで移動。バス停に向かう途中、四条大橋から比叡山が立ち並ぶビルの上に山頂を覗かせていた。指差して、YoとSetsuにこれからあのてっぺんに登るのだと教えた。
数え29歳の親鸞が比叡山を下りて六角堂へ100日の参籠を始めたのは今から820年前、建仁元年(1201)のことだった。わたしは四条大橋から比叡山山頂を結ぶ親鸞の歩いたルートを思い描いた。四条京阪から修学院まで、バスで30分弱だが、徒歩だと1時間20分ほどかかる(グーグルマップ調べ)。丹波篠山の法伝寺住職の長田浩昭[おさだひろあき]さんが、親鸞が堂僧として過ごした比叡山横川[よかわ]から六角堂まで、いつか実地でたどってみたいとおっしゃっていたが、今日は修学院から山頂まで、親鸞が歩いただろう道を下調べするつもりで臨む。いずれ全行程(横川-六角堂)を長田さんと歩いてみたい。
修学院駅前のバス停で降りて、途中フレスコでめいめい好きなカップラーメンを買って、山の上で湯を沸かして食べようという計画である。あとで気がついたのだが、ヤンさんのリュックにはわれわれ7食分のカップ麺を作る水が入っているにもかかわらず、ヤンさんの足どりは終始かろやかだった。
音羽川沿いに比叡山が間近に迫って、市中から見るより3分の1ほど低く見える。あるいはここまで来るうちゆるゆると登っていたのかもしれない。
いま「京都府の標高・海抜・高さまとめ」というサイトで徳正寺町の海抜を調べると37.8メートルだった(京都市の細かな町名ごとに網羅して海抜を示している)。音羽川沿いの修学院烏丸町は105.8メートル。修学院駅前のバス停のある山端城田町は75.1メートル。バスに乗って約37.3メートルを登り、登山口近くで113.3メートル(修学院南代)だから、バス停から山道に入るまでに38.2メートルを登りながら来たことになる。京都の町の中の高低差というのは、移動しながら知らず知らずのうち登ったり降ったりしていることがままある。
雲母坂[きららざか]にかかる橋を渡ると登山口に着く。
きららざか 雲母坂 比叡山西の坂。京都市左京区修学院町より登る。坂路峻嶮なり一名勅使坂と称する。伝へ云ふ、我が宗祖聖人叡山在学の時京都の六角堂へ百日間通夜参詣せられた時常にこの坂を往復し給ふたと。坂の絶頂を水飲と称し四明嶽の中腹に当る。(後略)
『真宗大辞典 第一巻』(岡村周薩編、永田文昌堂、昭和47年改訂再刊)
これを読むと、雲母坂というのは比叡山の中腹にまで差しかかり、登山口から休み休み30分ほど登ったところに「水飲対陣之跡」という石碑が立っていたので、あそこまでが雲母坂だったのだろう。坂路峻嶮であった。水飲あたりでSetsuがへこたれて、水筒のお茶を飲みながら「ちょうじょおまだぁ?」とヤンさんに尋ねると、「まだ5分の1くらい」との答えに、分数をまだ習っていないSetsu以外、「ええっ!?」と、もう半分くらい登っただろうという当て推量がうち砕かれてしまった。
ところで、比叡山の麓、雲母坂の登山口の手前に赤山禅院[せきざんぜんいん]という延暦寺の塔頭[たっちゅう]がある。親鸞が六角堂参籠からの帰り、ここへ立ち寄られることがあった。そこで親鸞は一人の女性に呼び止められる。わたしはその伝承を3年前の夏、大谷派教師資格を取得するための修練で聞いた。
一週間を東本願寺の修練道場に籠り、私たちはいささか退屈な講義指導と攻究の座談で明け暮れていた。修練に行く前はイデオロギーでガチガチの講師に教条主義思想を注入されるのかと恐れていたが、そういう先生にも出会わなかった。そうした単調な修練の日々に喝を入れられた一日があった。部落差別問題についての特別講義に、雨が降り続く丹波道を──そうあれは西日本豪雨で、その甚大な被害を修練が終わってから知った──先にも記した長田浩昭さんが篠山から何時間もかけてやってきたのだ。講義のあった日は麻原彰晃をはじめ地下鉄サリン事件等に関わった7人のオウム真理教信者の死刑執行(2018年7月6日)の翌々日で、長田さんの講義はその事実の衝撃も醒め遣らぬ熱のこもったものだった。修練道場で世間と隔離されていた分、娑婆世界がいっそう混沌としたものに思えた。その講義が、今も長田さんとの出遇いを特別なものにしている。
赤山明神(赤山禅院の本尊)で出遇った女性に親鸞は問い詰められたという。
「お坊さま、わたしを比叡山へお連れください」
「なりませぬ。お山は女人禁制です」
「なんというなさけない仰せ。お経には“一切衆生悉有仏性”という言葉がございましょう。すべて平等にお救いになるのがみ仏のお慈悲。山には鳥や獣や虫がいて、そこに雌雄があって当然のこと。なぜ人間の女だけは立ち入れないのでしょう。」
親鸞は返す言葉もなく、恥じ入ってしまった。
この伝承は、『親鸞聖人正明伝』という江戸期に成立したとされる親鸞の行状記に伝えられたもので、後世の作り話として歴史史料としての価値には欠けるそうだが、親鸞が比叡山を降りて、法然のもとで専修念仏の道に入る動機として、もしかしてそのような出来事があってもおかしくはないと思えるリアリティーの片鱗を感じるのは、長田さんの語りの篤さによるものか。じっさい、どのように語られたのか、『親鸞聖人正明伝』にあたってみた。
神籬の蔭より、あやしげなる女性、柳裏の五衣[いつつぎぬ]に、ねりぬきの二重なるを打被、唯一人出来れり。其[その]しな気高くて、いかさま大内に住みけむありさまに見けり。彼女姓、いとはしたなく、範宴[はんねん/親鸞の叡山修行時の法名]の御傍ちかくまゐりて云やう、御僧は、何より何地へ行せたまふと、御供にありける相模侍従、これは京より山へかへるにてさふらふ。女の云く、妾[わたし]も年来比叡山へ参詣の志ふかくありしが、今日思立てさふらふ。初ての所なれば、案内もいささか知りはべらず、一樹のかげ、一河のながれとやらむ申こともありときく。今日の御なさけに、いざ連れて登りたまはりさふらへと、染染[しみじみ]と申けり。範宴も興さめて、女性なれば其事は知りたまはじ。抑[そもそも]我比叡山は、舎那圓頓の峯高く聳え、五障の雲のはれざる人は登ることを許さず。止観三密の谷深く裂けて。三従の霞に迷ふ輩は入ることを得ず。『法華経』にも女人は垢穢にして仏法の器に非ずと説きたまへり。されば、山家大師の結界の地と定めたまふもことはりなり。浦山しくも登る華かなと、読みし歌をもしろしめされなむ。唯是よりかへられるべしとのたまへば、女性、範宴の御衣にすがり、涙の中に申けるは、さてちからなき仰をも聞くものかな、伝教ほどの智者、なむぞ「一切衆生悉有仏性」の経文を見たまはざるや。そもそも、男女は人畜によるべからず、若[もし]この山に鳥獣畜類にいたるまで、女と云ふものは棲まざるやらむ。圓頓の中に、女人ばかりを除かれなば、実の圓頓にはあらざるべし。十界十如の止観も、男子に限るとならば、十界階成は成ずべからず。『法華経』に「女人悲器」とは説ながら、龍女が成仏は許されたり。胎蔵四曼の中にも天女を嫌ふことなく三世の仏にも四部の弟子は有ぞかし。さはありながら、結界の峯ならば、登るべきに便なし。妾山にのぼらば、知識をたづねて捧げんとて持てる物あり。今はよしなし。是を天日の火を取る玉なり。それ一天四海のうち、日輪より高く尊きものなく、又土石より低く陋[いやし]きものなし。然に、天日の火ひとり下りて、燈炬となることなし。陋き土石の玉にうつりてこそ、闇夜を照すの財とは成るなれ。仏法の高根の水、たゝ峯にのみ湛えて、何の徳用あらむ。低く陋き谷に降りてこそ、万機を潤す功はあむなれ。御僧は末代の智人なるべし。よも此理に迷ひたまはじ。玉と日と相重るのとほり、今は知りたまふまじ。千日の後は、自ら思ひ合ふことの侍らんとて、玉をばさしおき、水蔭に立かくれおきて失せ去りぬ。其後二十九歳の冬のころ、九條殿下の息女に幸したまふのとき、姫の御名を玉日と申に意づきて、是なむ日火を明玉にうつして、一切衆生の迷闇を照し、五章三従の女人まで、ことごとく引導すべしとの教なりと、始めて悟りたまへり。かの玉を献[たてまつ]りし化女は功徳天女にてありける。本地は如意輪観音にてまします。
「親鸞聖人正明伝巻一上」(佐々木月樵編『親鸞伝叢書』無我山房、1912年)
「仏法の高根の水」は「低く陋き谷に降りてこそ、万機を潤す功はあむなれ」とあるように、親鸞は雲母坂を駆け降り、下へ下へと流れくだって陋巷へわけ入り、六角堂という町のまん真ん中の喧騒のなかで、仏法の清らかな水が、三界の火宅にある人たち、生死の苦海に生きる人たちの喉を潤すものだと気がつく。いまだ三界の火宅から脱せずいるのは親鸞その人で、女性(功徳天女)と出遇った赤山明神が、下界と山上、現世と常世[とこよ]の境界に位置し、そうした地理的事実がこの真実を伝えているようにも思えた。
行者宿報設女犯 行者、宿報にてたとひ女犯すとも
我成玉女身被犯 われ玉女の身となりて犯せられん
一生之間能荘厳 一生のあひだ、よく荘厳して
臨終引導生極楽 臨終に引導して極楽に生ぜしめん
親鸞が六角堂での夢告にあった「行者宿報偈(女犯偈)」についても書きたいのだが、話が下界にとどまっていっこうに山頂が見えてこない。親鸞の教えの根を明かすと女性の存在が現れる。親鸞の母とはどんな人だったのだろう。
昼食のラーメンを食べる場所を探して、比叡山ケーブルカーの山頂駅は人集りしていたので、ヤンさんがもう少し先に眺めのいい場所があるからそこで湯を沸かそうと言う。Setsu はもうこれ以上歩くのは勘弁してほしいと、ただひたすら目の前のラーメンだけを追い求めてここまで登ってきたような表情をしている。ヤンさんとYoとSちゃんとNちゃんは先へ先へ行ってしまった。KさんとSetsuは、一歩、一歩、「ラーメン!」を掛け声に歩いていた。肝心のラーメンはわたしとKさんのリュックの中に背負われている。
山道が途切れて広い原っぱに出た。ヤンさんとYoとSちゃんとNちゃんは原っぱの向こうの端に小さく見える。原っぱはなだらかな傾斜地で、たくさんの人が腰をおろしてお弁当を食べたりしている。この斜面はかつての比叡山人工スキー場の跡地ではないかとスマホで調べるとやはりそうだった(比叡山は電波環境がとても良い)。小学生の頃、比叡山のスキー場では人工雪を積もらせているというが、どうやって雪を降らせるのか不思議だった。
原っぱに座ると下界は木々に隠れて空と雲だけが広がって眺めは良いが、いざ座ろうと地面に目を落とすと鹿の糞がいたるところに落ちている。YoもSちゃんもNちゃんも、糞を指差してキャーキャー騒いでいる。Setsuも兄姉におくれまいと糞を探してキョロキョロしている。少し行った先に、かたわらに廃屋があるが眺めの良い場所を見つけ、そこにシートを敷いてリュックから取り出しためいめいのラーメンを開封しお湯が沸くのを待ちながら、持参のおにぎりをいっしゅんで平らげてしまった。ラーメンを食べるあいだは景色も会話もない。麺をすする音だけが耳にのこっている。
ここまで来たのなら山頂まで行って、そこから山を越えて坂本までケーブルカーで下山しようということになった。お腹もくちくなり、もうすこし歩けばあとは道を下るだけだと、登りの苦行から解放される思いが喜びに変わっていた。
比叡山の頂上は848メートル(大比叡)。ジャンプすれば頭のてっぺんは850メートルになると言ったら、子どもたちは並んで頂上ジャンプで記念撮影をした。
頂上から先は、もう登りはなかったのだが急峻な下り坂で、登りよりも歩速が落ちる。Setsuは一歩一歩、足場を確かめながら降りるので、見通しのいい場所でも誰の背中も見えなくなった。掛け声をかけても返事はない。延暦寺の僧侶の墓が道沿いに並ぶ。生涯の大半を山で送った人たちだろうか。親鸞は山を29歳で降り、数え90歳で生涯を閉じた。
山は地上からわずかに高いだけのことだが、その僅かな往還によって心身にもたらされるものがある。地上に帰って布団に横たわると、こころよい疲労が、明日の活力になって盛りあがってくるのが感じられた。
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