彼岸会のご案内にも書きましたが、わたしの住まいにはテレビがないので、昨夜も彼岸の御荘厳を終えて、遅い時間に銭湯へ行きますと、お客も絶えて、脱衣場ではウクライナのニュースが流れていました。ウクライナ南部の都市、マリウポリの、住民が避難していた劇場が空爆されて、数百人の無辜の市民が犠牲になったと聞きました。当然、戦争にたずさわれない、子ども、女性、老人が大半を占めていたのでしょう。
ニュースの中で、救助にあたる男性が、タオルに覆われた赤ちゃんを抱えて、「人間というのは慣れてしまうのだ。でも夜になるとこの光景が繰り返し現れて眠れない」と、言葉は違っているのかもしれないですが、そういう意味のことを答えていました。
人間というのは慣れてしまう
と言うのは、とても恐ろしいことであり、人間の本質でもあると思います。赤ちゃんを抱いた彼は、「慣れてしまう」ということに対しても眠れなかったのではないでしょうか。
いまこの場にいらっしゃる方で、77歳を超える方は、生まれたとき日本は戦争のただなかでした。昭和20年の3月というのは、3月10日東京大空襲、3月12日、19日名古屋大空襲、3月13日大阪大空襲、77年前の昨日3月17日は神戸大空襲でした。
平成の半ば過ぎ頃まで、お盆の法要に際して、「開智学区戦没者諸霊」という言葉を、表白のなかで読み上げていました。それは、戦争体験が、この場に集まる人のあいだで共有されていたことを表していたのだと思います。「夜になるとこの光景が繰り返し現れて眠れない」という経験が生きていたのだと思います。しかし、いつの頃か「開智学区戦没者諸霊」という言葉は消えてしまいました。それは戦争体験を背負ってきた人がここから退場したことを意味していたのだと思います。
なにも、戦争体験を語り伝えるという観点から、この文言を省いた、前住職を咎めているのではありません。父も昭和20年2月生れの戦中世代です。敗戦後を生きた人のなかに、この戦争体験を足場にして、日本国憲法の「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という9条の条文を実のあるものにしてきたのだと思うのです。しかし、人間というのは慣れてしまう。このしっかりと足場としてあった戦争体験が、波にさらわれる砂のように、気がつくと無くなっていた。それこそが、有史以来、人間社会が繰り返し繰り返し戦争をしてきたことの大きな原因ではないかと思ったのです。
「人間というのは慣れてしまう」と言うのは、とても恐ろしいことだと言ったのは、そういうことです。
ひとつ、66年前に書かれた子どもの詩を読ませていただきます。
堺市浜寺小学校六年のK・T君という男の子が書いた詩です。K・T君も戦中世代、父と同じ学齢です。タイトルはずばり「戦争」
すな山で戦争やった
ぼくは
鉄砲でうたれたような
かっこうをした
ぼくのおとうちゃんは
どんなふうに
いのちをなくしたんだろう
鉄砲があたったんだろうか
それとも、大砲だろうか
ぼくは
てきを、めちゃくちゃにやったった
「戦争」(堺市浜寺小学校六年/K・T)
〈『きりん』一九五六年十月号/第九九号〉
K・T君のお父さんは戦死したのでしょう、戦争の理不尽さが胸を衝きます。
この詩を読んだとき、こんなことを考えました。
もしこれが戦時中なら、「てき」という言葉を「アメリカ」と書くことにためらいはなかったはずです。しかし、戦争に負けて、アメリカの属国となったなかで、かつての敵国は、もう「てき」ではないことは、子どもの目にも明らかです。悪いのは、不義の戦争でアメリカと戦った「おとうちゃん」のほうではないか。おとうちゃんは悪者なのか。おとうちゃんを殺した「てき」、おとうちゃんの戦った「てき」とは、いったい誰なのでしょう?
ぼくは
てきを、めちゃくちゃにやったった
と書く少年の目に見えた「てき」とは、いったい何でしょう。
これは、いま「戦争」という出来事に遭遇して、取るものとりあえず「てき」というものを、見えるものに仕立てあげ、これは〈善〉、これは〈悪〉と決めつけることによって、慣れてしまおうとする、人間の〈無明〉、すなわち〈迷いの根本〉ではないでしょうか。
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