完全なる無宗教者


 友人から、むかし作ったZineに書いた文を探してほしいと頼まれ、外付のHDDから版下データを探して、ぶじに彼のエッセイは見つかったのだけれど、1月末に7年使ったMac miniが壊れてしまい、新調したところ、過去12年くらいに及ぶデータを保管したHDDが開かなくなっていた。3年前に買ったMacBook AirにHDDを繋ぐとすぐ開けるから、この数年でMac OSの環境が、旧態然のユーザーを置き去りに激変してしまった。

 それはさておき、むかし作ったそのZine(『HOKUS POKUS(ホオクス・ポオクス)』という名で6号ほど、ブッダカフェの Zine として作成した)のバックナンバーを繰っていたら、10年前の2012年5月7日を発行日にもつ号に次のような後記を書いている。



先月3日、真宗大谷派京都教区同和協議会の主催で小出裕章氏の講演会があった。ビル2階の講堂に100名ほどの聴衆が畳に座り、比較的ゆったりとした雰囲気で聴くことができた。講演は3時間近くに及び、スクリーンに映された資料のもと、この一年余り方々で繰り返ししゃべったと知れる淀みのない語り口で、小出氏の説く原発産業の不合理性は明解だった。小出氏は3.11以前から同じ明解さで語ってきたはずなのに、我々は聞く耳を持たなかったのかと恥じた。その日は全国的に荒れ模様で、雨粒が窓を烈しく打っていた。私はしきりと窓の外が気にかかったが、小出氏の視線は荒れ狂う外界を一向に察する様子はなかった。死海のクムラン洞窟に発見された「死海写本」(B.C.2世紀)とは、ほとんど筆写の誤りがないのだという。それを翻訳家の須山静夫氏が「文字を書くことに対する姿勢が根本的に厳粛を極めていたのではないか」(『クレバスに心せよ』/吉夏社)と推している(5/6付「毎日新聞」荒川洋治氏の書評より)。岩壁に阻まれ「目を楽しませてくれるものは一つもない」場所だから、そうした「熱意、集中力」を持って仕事が出来た。小出氏が講演の締めくくりで発した「私は完全なる無宗教者です」との言葉に、私は躓いた。科学に殉ずる者の姿勢は厳粛を極めるものだから当然ではある。しかし感ずるところ、クムランの筆記者と完全なる無宗教者たらん科学者はどこか似通っている。恐らくは、根本的に厳粛を極める宗教とは、原子炉のような密室に封じられて執行されるものだから。 (R.T.)

『HOKUS POKUS n゜1』


 さいきん小出裕章氏の講演会をYouTube でいくつか聞いた。この10年の社会の変化を踏まえつつも、10年前わたしが聞いたこととほとんど変わらない内容を小出氏が話されていることに愕然とした。振れのなさに頭がさがると同時、「私は完全なる無宗教者です」ときっぱりと言われた氏の姿を思い出した。

 実をいうと、小出氏がそう答えられた質問を発したのはわたしだった。

 どのような質問をしたのかうろ覚えだが、3.11の福島原発事故を知った時、小出さん自身、心の動揺はあったのでしょうか、またそれに伴う心境の変化はありましたか? という趣旨のものだったと思う。場所が真宗大谷派京都教区教務所の講堂だったこともある。わたしは僧侶をしている、と質問の前に自己紹介をした。その答えが「私は完全なる無宗教者です」という一言だった。

 10年を経て聞いた小出裕章氏の講演は、あらためて宗教とは何かを教えているように思えた。






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